091~100+1きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣片敷き ひとりかも寝む こおろぎが鳴いているこの霜の夜の、寒々としたむしろの上に、自分の衣の片袖を敷いて、私はただ一人寂しく寝るのであろうか。 この歌は、「古今集」の「さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫(よみ人しらず)」と、柿本人麻呂(NO,3)の「あしびきの・・・」の2首を本歌として詠まれています。 晩秋の霜の降る寒い夜に1人で寝る寂しさを詠んだものです。 静けさの中に響くコオロギの声が寂しさや哀れさをいっそう強調しています。 恋を主題にした歌ではありませんが、恋しい人を思いながら、長い夜を1人寝するという本歌のイメージが重なり、恋の切なさが余情としてほのかに漂っています。 備考 「衣片敷き」は、自分の衣の片袖を敷くことですが、恋人と共寝するときはお互いの衣の袖を敷きかわし、1人で寝るときは自分の衣の片袖だけを敷くところから、1人寝の象徴となっています。 晩秋の夜の物寂しさがしみじみと伝わってくる歌です。 【後京極摂政前太政大臣】ごきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん 藤原良経のこと。(1169‐1206) 九条兼実の子。 鎌倉初期の公卿で歌人で書家。 摂政・太政大臣と累進し、後京極殿と呼ばれた。 叙情歌に優れていた。 書は後京極派の祖で、作品に「般若理趣経」などがある。 家集に「秋篠月清集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし 私の袖は、潮が引いた時でさえ、海中にあって姿の見えない沖の石のように、人は知らないでしょうが、あの人を思う恋の涙のために乾く暇もないのです。 『千載集』の詞書には「奇石恋(いしによするこい)といへる心を」と記されているので、非常に難しいテーマを詠んだ歌である事が分かります。 しかし、作者は「石」という恋とはあまり縁のない題材を巧みに料理し、見事に恋の世界を描ききっています。 「沖の石」は、海の底深くひっそりと沈んでいて、例え潮が引いても、その姿を人の前に現すことはありません。 辛い恋のために人知れず涙を流す女性の姿をなぞらえたものです。 この歌は当時から大評判となり、以後、彼女は「沖の石の讃岐」という異名で呼ばれるようになりました。 備考 恋の嘆きを自分以外の誰も知らないということも、恋しい人を想って涙で袖を濡らすということも、恋の歌にはよくある表現です。 そかし、それを「潮干に見えぬ沖の石」に例える事によって、報われぬ恋の辛さや悲しさが鮮やかに印象づけられ、これまでにない新鮮さが生まれています。 当時から大評判となるほど見事な作品です。 【二条院讃岐】にじょういんのさぬき 平安末期から鎌倉初期の女流歌人。(1141‐1217) 源頼政の娘で、二条天皇に女房として仕えた。 後に後鳥羽院の中宮宜秋門院に仕え、晩年は出家した。 観照的で落ち着いた歌風。 歌は「千載和歌集」以下の勅撰集に入集。 家集「二条院讃岐集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ あまの小舟の 綱手かなしも 世の中は永遠に変わらないものであってほしいなぁ。 この波打ち際を漕いで行く漁夫の小舟が網で引かれて行く様子に、しみじみと心が動かされることであるよ。 作者は、鎌倉幕府の3代将軍、源実朝です。 漁師に引き網を引かれた小舟が、波打ち際をゆっくり進んでいきます。 そのしみじみとした光景を見て、作者はいつまでも世の中が変わらなければ良いと願ったのです。 逆に言えば、世の中が無常である事を作者は知っていたということになります。 穏やかに海を眺めながら、この平和がいつまでも続けば良いと願う、作者の気持ちが静かに伝わってきます。 備考 鎌倉幕府の3代将軍とはいっても名ばかりで、政治の実権は北条氏が握っていました。 また、兄の頼家は北条氏に殺され、自分もいつ命を狙われるか分からない環境にありました。 そんな境遇の中で、この歌は、変わらぬ平和を望んだのかも知れません。 【鎌倉右大臣】かまくらのうだいじん 源実朝のこと。(1192‐1219) 鎌倉幕府の3代将軍で歌人。 頼朝の2男で、母は北条政子。 政治の実権を北条氏に奪われ、自身は京文化にあこがれて公家的な生活を送った。 官職を望んで右大臣にのぼったが、鶴岡八幡宮の社頭で甥の公暁に刺殺された。 歌は藤原定家に学び、万葉調の雄大な歌を残した。 家集に「金槐和歌集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ み吉野の 山の秋風 小夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり 吉野の山の秋風が吹きおろし、夜も更けて、かつて都があったこの里は、寒さが身にしみて、衣を打つ砧(きぬた)の音が寒々と聞こえてくることよ。 「新古今集」の詞書には「擣衣(とうい)の心を」と記されています。 「擣衣」とは、砧(きぬた)で衣を打つ事で、この音は昔から物悲しいものとされていました。 作者は砧の音が聞こえてくる場所を吉野に設定しています。 古都吉野は、京の都の人々に特別な感傷を抱かせる土地であり、古くから多くの歌に詠まれてきました。 従って、「砧の音」と「吉野」の2つの素材を詠みこむことで十分に物寂しいイメージが生まれてきます。 深まりゆく秋の夜の寒さを聴覚的にとらえ、しみじみとした哀愁を感じさせる歌となっています。 備考 この歌は「古今集」に収められている坂上是則(NO,31の作者)の「み吉野の山の白雪積るらし古里寒くなりまさるなり」という歌を本歌としています。 本歌の季節は冬ですが、雅経は晩秋に変えています。 吉野の山から吹きおろす秋風に乗って、衣を打つ砧の音がどこからともなく聞こえてきます。 故郷吉野の地に響くその音は寂しげですが、どこか懐かしく思えたのでしょう。 【参議雅経】さんぎまさつね 藤原雅経のこと。(1170‐1221) 飛鳥井雅経(あすかいまさつね)とも称す。 鎌倉初期の廷臣で歌人。 「新古今和歌集」の撰者の1人。 よく蹴鞠をしたという。 飛鳥井家の祖。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつ杣に 墨染めの袖 身のほどに過ぎた事ではあるけれども、この憂き世に住む人々の上に覆いかける事であるよ。 比叡山に住み始めて身に着けているこの黒染めの衣の袖を。 仏法の力によって、世の中の人々を救済しようという決意を詠んだものです。 「わがたつ杣(そま)」とは、比叡山の異名です。 これは比叡山を開いた伝教大師(最澄)が、根本中堂を建立したときに詠んだと伝えられています。 「阿耨多羅三藐三菩提【あのくたらさんみゃくさんぼだい(無上最高の知恵を持っている)】の仏たちわがたつ杣に冥加(ご利益)あらせ給え」という歌に基づいています。 平安時代末期の頃は、相次ぐ戦乱に加えて悪疫、飢餓が続き、世の中の人々は生活に疲れきっていました。 民衆の苦しむ姿を目の当たりにした作者は、僧として何とか人々を救いたいと思い、この歌を詠んだのです。 備考 作者名は「前大僧正」となっていますが、慈円がこの歌を詠んだのは大僧正になる前の比較的若い頃のものです。 比叡山の僧として、伝教大師の教えを引き継いでいこうという作者の意志が伝わってきます。 また、宗教者としての強い決意と自負を、尊大になることなく謙虚な姿勢で詠み上げているところに、作者の人間性の大きさと気品が感じられます。 【前大僧正慈円】さきのだいそうじょうじえん 藤原慈円のこと。(1155‐1225) 鎌倉前期の僧侶で歌人。 関白藤原忠通の子。 兄の九条兼実と共に、源頼朝と親交を結ぶ。 4度天台座主になり、1203年には大僧正。 史論「愚管抄」では、政権の変遷を当然の道理とした。 和歌は「新古今集」に92首を収める。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり 桜の花が誘い散らす春の嵐が吹く庭は、花が雪のようであるが、古(ふ)りゆく(老いぼれていく)のは雪だけでなく、実は私自身であったのだなぁ。 入道前太政大臣は、平安末期の動乱の時代を鎌倉方に味方して生き抜き、承久の乱後は幕府の力をバックにして、太政大臣にまで昇りつめた人です。 位人臣を極め、何事も意のままに出来た彼の作品だけに、権力ではどうしようも出来ない老いの訪れを実感したときの感慨は、特別に深いものだったと推察できます。 風に散る桜の花を前にして、動乱に満ちた人生を振り返っている老いた作者の姿が目に浮かぶようです。 備考 「新勅撰集」の詞書には、「落花をよみ侍りける」とだけ記されていて、具体的にはいつ頃の作品なのか定かではありません。 ただ、歌の内容から作者が老年になってからの作品である事が窺い取れます。 NIJIからも一言。 形ある物は いつかは壊れ 生あるものは いずれ死す。 今生において 何を成したのかが問われる。 馬齢を重ねることのないよう 心して生きたい。 【入道前太政大臣】にゅうどうさきのだじょうだいじん 本名は藤原公経。(966‐1041) 平安中期の歌人で歌学者。 博学多芸で詩・歌・管弦の「三船の才」の逸話で著名。 当時の歌壇の権威者で,勅撰集には「拾遺和歌集」以下に入集。 家集に「前大納言公任卿集」、歌学書に「新撰髄脳」「和歌九品」 編著に「和漢朗詠集」「金玉集」「北山抄」などがある。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ いくら待っても来ない人を待つ私は、松帆の浦の夕なぎの時に、海辺で焼く藻塩のように、恋の思いに身を焦がれていることです。 定家自身が百人一首に撰び入れた歌です。 訪ねてきてくれない恋人を待ち続ける女性のせつない気持ちを巧みな比喩を用いて表現しています。 物寂しい夕なぎの海辺と、そこで焼かれる藻塩という情景は、待てど暮らせど来ない恋人をなおも待ち続け、恋の思いに身を焦がす女性の姿を視覚的に浮かび上がらせます。 定家の歌の好みが良く分かる作品と言えるでしょう。 備考 この歌は「万葉集」の長歌、「・・・淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海女娘子 ありとは聞けど 見にゆかむ・・・」を本歌として、「海女娘子(あまおとめ)」の立場から詠んだものです。 情景と恋心が一つに溶け合い、そこから見事な余情が生まれてきています。 【権中納言定家】ごんちゅうなごんていか 藤原定家のこと。(1162‐1241) 『小倉百人一首』の撰者とされる。 鎌倉初期の歌人で歌学者。 京極中納言と称される。 21歳で詠んだ「堀河百首」で大家と認められ「新古今和歌集」の撰者。 1232年単独で「新勅撰和歌集」をえらぶ栄に浴し、多くの歌合の判者を務めた。 歌風は絢爛巧緻(けんらんこうち)を極め、父俊成の幽玄体を発展させて有心体を開く。 歌論書に「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌大概」を残した。 歌は「千載和歌集」以下の勅撰集に多数入集。 日記「明月記」は文化史上の貴重な史料である。 家集に「拾遺愚草」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける 風がそよそよと楢の葉に吹きそよいでいる。 このならの小川の夕ぐれは、もう秋のように感じられるが、六月祓のみそぎだけが、まだ夏であることの証拠なのだなぁ。 夏の終わりは、暑い日が過ぎ去り、涼しい秋が始まることにホッとします。 その一方で、力強く輝いていた太陽の光が次第に弱々しくなっていく様子に妙に感傷的になったりします。 その思いは夕暮れ時にいっそう強く感じられるものです。 この歌は、そんな夏の終わりの夕暮れ時の情景を詠んだものです。 楢の葉をそよがせる涼風が秋の訪れを感じさせる夕暮れに、上賀茂神社のならの小川で、夏の終わりを告げる六月祓(むつきはらい)が行われている情景を詠んでいます。 初秋の風の清涼感と神事の清浄感が一つになり、清らかな美しさを醸し出しています。 備考 「新勅撰集」の詞書には「寛喜元年女御入内屏風」と記されています。 つまり、藤原道家の娘が後堀河天皇の女御として入内する際に用意された屏風に添える歌として詠まれたことが分かります。 この屏風は12ヵ月の年中行事の絵を描いた月次屏風で、この歌は夏(6月)の風物として「六月祓」を描いた屏風に添えられました。 秋の訪れを嬉しく思うとともに、去りゆく夏を惜しむ気持ちを爽やかに詠み上げています。 【従二位家隆】じゅにいいえたか 藤原家隆のこと。(1158‐1237) 鎌倉初期の歌人。 壬生中納言光隆の子。 従二位まで進んで壬生二品(みぶにほん)とも呼ばれる。 藤原俊成門下で、新古今時代に定家と双璧とされた。 新三十六歌仙の1人。 「新古今和歌集」の撰者にも列する。 清新で伸びやかな、しかも優艷な歌風。 「千載和歌集」以下の勅撰集に入集。 家集に「壬二(みに)集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は 人がいとおしく思われ、あるいは人が恨めしく思われることだ。 面白くない世だとこの世を思うところから、色々と物思いをするこの私は・・・。 後鳥羽院は政権が朝廷から鎌倉幕府へと移り、貴族の世から武士の世へと変わった、激動の時代を生きた人でした。 この歌は、建暦2年(1212年)に詠まれた歌です。 当時の鎌倉幕府は3代将軍実朝(さねとも)の時代だったが、実権は北条が握っていました。 院政を執っていた後鳥羽院の胸中には、自分の思うとおりに行かない北条と武家に対する不満や怒りが積もっていたに違いない。 歌の中で「人間というものは、あるときは愛しく、あるときは恨めしく思われる」と、人の心の頼りなさを嘆いています。 いつの世も、権力争いは同じ方程式で行われるのですね。 備考 この歌は、後鳥羽院が「世を思ふゆゑに物思ふ身」であるところから詠まれています。 つまり、上皇として世の中を憂えるが故に、幕府と対立せざるを得ないという難しい状況にあった彼の深い苦悩が伝わって来るようです。 【後鳥羽院】ごとばいん 後鳥羽天皇のこと。 鎌倉初期の天皇。(1180‐1239) 在位期間は1183~1198年で、高倉天皇の第4皇子である。 後白河(ごしらかわ)法皇の意向で即位した。 1192年法皇の没後親政。1198~1221年まで,院政を行った。 承久の乱を起こし,幕府を倒そうとして失敗,隠岐(おき)に流された。 和歌にすぐれ,定家らに命じて「新古今和歌集」を勅撰させた。 家集に「後鳥羽院御集」、歌論書に「後鳥羽院御口伝」などがある。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり 宮中の古く荒れ果てた軒端に生えている忍ぶ草を見るにつけても、いくら忍んでも忍びつくせないほど、恋しく懐かしい昔の御代であることだ。 この歌は、彼が20歳で天皇の位にあったときに詠んだものです。 承久の乱の5年前、武家の力が強大になり政治状況が不穏になってきた時期です。 宮中の古びた軒端は、朝廷の力が衰えていることを象徴しています。 そこに生える忍ぶ草を見て、順徳院は朝廷がもっとも栄えていた醍醐・村上天皇の廷喜・天暦の御代を懐かしんだものと思われます。 朝廷の現状を嘆き、何とかもう一度朝廷に力を取り戻したいと願う若い天皇の気持ちが伝わってきます。 備考 しかし、自分の力ではどうにもならないことも承知していたようです。 「なほあまりある 昔なりけり」という深い詠嘆は、諦めのため息に聞こえるのは私だけでしょうか。 1221年、後鳥羽・順徳院親子は承久の乱に破れ、以後、長い間武家社会が続くことになります。 【順徳院】じゅんとくいん 順徳天皇のこと。(1197‐1242) 鎌倉初期の天皇。在位1210~1221年。 父の後鳥羽上皇と承久の乱を起こして敗れ、佐渡ヶ島に流され崩御。 和歌に優れていた。 日記に「順徳院御記」 歌学書に「八雲御抄」 故実書に「禁秘抄」などがある ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 逢いたくて 想い廻らす 寂しさに 夢でまさぐる 愛し面影 逢いたくて今日も想いを廻らしている。逢えない寂しさに夢の中でも弄ってしまう。 あの日の貴女の愛しい面影を・・・。(*^^*ゞ この歌は空想歌です。 見た事もなければ、ましてや逢った事もない女性の姿を、夢の中で想い描いて詠んでいます。 ロマンチストを自称する彼らしい作品です。 しかし、本文と説明文に多少の表現の差異があるように思えます。 短い言葉の中に多くの想いを挿入したかったのでしょうか。(*^o^*) 備考 さて、この歌はどなたに捧げましょうか。(^◇^) 【NIJI】にじ 当サイトの管理人。(19☆☆‐現在に至る) ロマンチストでナイーブで恥ずかしがりや。 若くして両親を亡くし、激動の半生を送ってきた。 『幸福への道しるべ』など、自費出版の著作がある。 その他は、言わぬが花、聴かぬが花、知らぬが花。(^_-)☆ ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ ジャンル別一覧
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